同人ゲーム製作の心理学 第5回

■■才能って何?■■


「自分には才能があるのかなあ……」
という話をよく聞きます。

「自分には才能がある!」と自信満々に言える人は、この先を読まなくても大丈夫です。
高い実績と、評価を重ねてきた結果が出ているはずですから。

そうでない人(例えば僕自身とか)のために、話を続けます。

才能論は、結論が出ないのに皆が必死になる、荒れがちな話題の一つです。

ゲーム製作に限らず、漫画、絵画、写真、などなど、いろいろなジャンルで創作に励んでいる人が、世界中で自問自答しています。

自分にとって切実な問題なのに、あるのかないのかはっきりしない。
「神はいるか」とか、「運命は変えられるか」とか、「死後の世界はあるか」等と同じようなものです。
これらは、いくら切実でも証明する事はできません。
才能も一緒です。

才能の有無は創作に限った話ではないのですが、ここでは創作系に絞ります。
創作の才能は「足が速い」とか「暗算が早い」等のデータで測れる能力では無いので優劣の判断をつけにくいんです。

勝手ながら、このコラムでは、まず才能を僕が定義しちゃいます。
・「才能は生まれつき持った能力では無い」
・「才能は社会が決める客観的評価である」

「才能は神様からもらった潜在能力である」という、
一般的に考えられている概念はここではあえて外します。

また、新明解国語辞典(第二版)には

さいのう【才能】 理解して処理する、頭の働きと能力

と書いてありますが、その定義も無視しているので、あくまで僕個人の邪道的見解だと思って下さい。

僕の考えでは、才能は容姿の評価と同じようなものです。
容姿は生まれつき持っているものですが、それが美しいかどうかは時代によって変わります。
平安時代と現代の美形の概念は違います。また同じ時代でも各地域の文化よって違いがあります。
ようは、「この人は美しい」と言う人が多いほど美しくなる。
美の一般的基準は社会が決めるものであり才能も同様です。

もう少し、具体的な例を挙げます。

ゴッホと言えば、芸術界の超有名人ですが、この人、生きているうちに売れた絵はたった一枚でした。
では、ゴッホはいつから才能が芽生えたんでしょうか?
僕の定義では、ゴッホの死後、
「ゴッホには才能がある」
と考える人が多数派になってからです。

創作の場合、自分に才能があるかどうかを決めるのは、自分では無くて他人です。
「君には才能がある!」
と言う人が、増えれば増えるほど才能が上がるわけです(その発言がどんなに無責任なものであっても)。
いつ、何がきっかけで、誰が自分の才能を認めてくれるか分かりません。
もちろん
「君には才能が全くが無い」
と言われるのも同じ事です。たとえ、どんなに高名なプロの意見だとしてもです。
ゴッホが後に不朽の名声を得る事を、当時の芸術のプロ達は予見する事ができなかったんですから。

「自分に才能があるかどうか」を考える事は、「自分は将来、多くの人に認められるかどうか」を考える事と一緒です。
それを知るには未来を予知するしかありませんし、予知に成功しても「死後100年経ってから天才と言われる」という結果が出るだけかもしれません。

だから今の時点で自分の才能の有無を必死に考えても意味がありません。

でも、意味が無いのに自問自答してしまうのはなぜでしょう。
本当は別の答えが知りたいのだと思います。

僕のカウンセリングの経験則から言うと、
「自分は、今挑戦している事を続けるべきか、あきらめるべきか」
が才能の有無で悩んでいる人の本音でした。

もし、それが真の問いだったら、答えの出し方はシンプルです。
「やりたいか」「やりたくないか」という純粋な気持ちをまっすぐ見つめて、打算抜きで決めれば良いんです。
この方法はシンプルですが簡単ではありません。度胸がいります。

でも、「才能があれば続けよう。無ければあきらめよう」を基準に決めようとするのは、自分の人生の決断を自分以外の誰かにあずける事です。
それは他人の価値観に乗っかっているだけの、むなしい生き方です。

「いや、そんな事を言っても、もしも、無駄な事をしていたらと思ったら怖いじゃんか!」
全くその通りです。僕も無茶苦茶に怖いです。

では、何故怖がるんでしょうか?

たとえば僕の場合、
「自分に政治家の才能が無かったらどうしよう?」と怖がった事はありません。
「パティシエの才能が無かったらどうしよう?」と不安になった事もありません。
最初から、なる気が全くないからです。
そんなわけで、僕には政治家の才能やパティシエの才能が眠っているかもしれませんが、それが目覚める機会は無いでしょう。
だって、昔も今も興味がないからです。

世の中にはスキルの数だけ才能があります。
「サッカー」「将棋」「手品」「ペン回し」「結婚詐欺」……等々。

本当は「才能があるかどうか」よりも、重要な事があるんです。
数億も数兆もあるスキルの中で、私達はそれぞれ
「その才能が必要なスキルをあえて選び、実現を目指した」
という事実です。

人間は大人になると、無意識のうちに現実味のある夢しか興味を持たなくなります。
僕も、幼い頃は「宇宙飛行士になりたい」などと気軽に言ってましたが、自分にその才能があるかどうか悩む前に、そんな夢はきれいさっぱり忘れて別の夢に切りかえていきました。

逆に言えば、人間はギリギリ手が届きそうな夢だけに興味を持ちます。
夢は必ずかなうとは言いません。なぜならどんな夢も、かなうか、かなわないか分からない「ギリギリ」のところにあるからです。
なぜギリギリかというと、余裕で手が届くものは、ただの予定であって「夢とは呼ばない」からです。

夢がかなう保障はありませんが才能の有無を気にした夢は、ギリギリで届く可能性と、届かない可能性が等しくあります。
ギリギリの可能性に賭けるか、勝負を降りるか、人生はその選択の繰り返しです。

この、ギリギリというところが人生の面白さでもあり、残酷さでもあります。
人生のゲームバランスって絶妙だなと、つくづく思います。

話があちこちに飛んだので、まとめます。

・才能があるかどうか悩むなら、やりたいか、やりたくないかを考えよう。

・才能があるかどうか悩むという事は、夢に届くかもしれないという事。

最後に僕のポリシーをつけ加えます。

・自分がやりたい事をやったなら、夢に届いても、届かなくてもいいじゃないか!



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